移骨したなんて能動的に書いているけれど、実際には母が決めてお金も母が出して、姉が必要な書類や手続きを全部調べて、新しく納骨する場所の手続きもしてくれた。

私は母に付き添って、檀家だったお寺に行って「修蔵証明書」なるものを貰って「離檀届」を出して、市役所に行って「改葬許可証」を貰って、お経を頂いて、遺骨を、貰ってきただけ。介助と力仕事だね。

母と10歳くらい年の離れた叔母さんが、75歳になったら免許証を返納することに決めているそうで「ギリギリの時にお姉ちゃん(私の母)の役に立ててうれしい」とお寺さんへ行くのも、母の実家の墓参り(永代供養して観音様の元に集団で納骨されているところと、骨の亡くなった墓と…)をしたり、景色が良い展望台や、母と父が知り合った職場である地元で有名なお菓子屋さんに連れていってくれたり、母が買いたがっていた山崎パンを探していろんなお店に行ったりと、車を出してくれてとても助かった。

もう一人の叔母さんも忙しい中ホテルまで来てくれて、ロビーでおしゃべり(事前にホテルの許可は貰った)できて、楽しかった。

叔母さん達は、はっきりと口には出さないけれど、「姉ちゃん(母)が生きている内に会うことは無いかも知れない」と思っているのが伝わってきた。

父の骨も移動しちゃって、寺も離檀して、母の実家の墓も墓じまいして、もう母が北海道に行かないといけない理由が無い。

母と一番年の近い叔父さんは肝臓を悪くして無くなっているので、その下はもうすぐ75歳になるという、車を出してくれた叔母さん。普通に考えて、84歳の母より先に亡くなることはないはず。

それは同時に、私が北海道に行く機会もあと10年くらいは無いってこと。クラス会とか部活の集まりがあったら行くけど、50歳の時のクラス会で、これがきっと最後って雰囲気あったし…。

自分が捕まえておかなかったから、離れてしまったのだけど、北海道と縁がなくなるのは寂しいな。小学校までは、あんまり良い思い出はないのだけど、中学、高校の頃は楽しかったなぁ。私のピークは中学生の頃だと思うんだよな。

お父さんは、女の子は一旦地元を離れても、そのうち親の元に戻ってくるという考えの人だった。ってことは、もう成仏したのかな。コロナ禍の間に33回忌も過ぎたもんな。

もしも父が死んでなかったら、両親は今も実家に住んでいて、私は子どもを連れて毎年のように遊びに行っていたと思う。姉たちも来て、大勢で花火したり、プールのある温泉に行ったり…私が子どものころに従弟たちが遊びにきたような日々を送ってたんだろうな。

…でも、実際は父は死んでしまって、しばらくは母は北海道にいて、私も時々帰省はしていたけれど、私は出産が遅かったから、出産前に母は姉のもとに引っ越してしまって、里帰りすることもできなかった。

上の子は私が友人の結婚式に行ったり、部活の集まりがあったりで、赤ちゃんの頃に北海道に行って、親戚にも会っているけれど、下の子なんて、初めて北海道に行ったのは、高校生になってからで、私の親せきには会ったことが無い。

そんな風にもうずっと、北海道には縁が薄れていたのに、ちょっと涙がでそうなくらい寂しい気持ちになってしまったのは、我ながらびっくり。意外な感情だったな。